戦時中のはなし 6

昭和18年のころ

当時6割くらいの生徒が小学校、いや国民学校を卒業して進学したようだ。 勿論進学先も一般の公立中学校や、
私立のや、工業、商業学校などあったが、主として公立中学校に進学した。
私もその例に漏れず、河内のど真ん中にある中学校に入学した。 一応入学試験なるものがあり、当時の風潮から
体力重視のものであった。砲丸投げとか走り幅跳びなどの測定があり、学科?は爆撃機から爆弾投下を行った時の
放物線の想定問題などがあったが、殆ど内申書で入学を決定していたようだ。

卒業前に体の小さい男の子が、少年満蒙開拓団に入隊したといって、ゲートル姿で皆の前で敬礼し、校長に伴われ
校門をあとにして行った。今でも忘れられない光景の一つである。彼は生きて内地に戻ることが出来たのだろうか。

戦況も厳しくなりつつあったらしく、中学校は学びの場としての他、軍国少年の育成の場と認識されていたようだ。
制服を購入したが、勿論配給制で一着だけ、しかも全員の色が揃わず、あるものは濃グリーン、あるものはベージュ
とまだら模様の新一年生であった。素材はスフ、所謂人絹で粗悪品であった。 匍匐前進などで膝と肘を使っての
腹ばい前進で穴が開き、直ぐに補修しなければならなかった。
毎朝、ゲートルを巻いて登校した。 これもスフ製で綿と違ってすべりがひどく、ずれ下がって登校途中で巻き
直しをしなければならない事も度々であった。
軍事訓練の他、剣道、柔道、柔剣道と校庭と武道館の生活も結構多かった。竹刀、柔道着などを持ち、まるで武蔵坊
弁慶のような出で立ちで登校する日も少なくなかった。
新教科の英語は楽しかった。王冠が表紙のKing's Crown Reader という教科書で、中を見るだけで新世界に行った
ような気分だった。 また、Gペンをインク壷に入れて書く英習字は何か別世界にいる瞬間を味わった。
国語の時間のため、辞書の購入をしたが、全員同じ辞書が配給されず、色々な辞書が行き渡った。紙が粗悪なため
分厚い辞書であった。当時読む書物にも事欠いていたので、この広辞淋なる辞書は退屈しのぎに見るにはもって
こいのものであった。知らない言葉を引き、その説明の中の知らない言葉を引きして、辞書の中を遊んでまわった。
それが今日のこのブログとの出会いに結びついたのかもしれない。