戦時中のはなし 11

昭和19年から20年
警戒警報と空襲警報の回数が増え、警戒警報発令の間もなく、空襲警報が発令になるようになりました。
不気味なサイレンの断続的に鳴る音を聞いていると、何か奈落の底に引きずり込まれていくような、滅入った
気分にさせられました。
各家には空襲に備えてあったものといえば、防空壕、火消し用具(竹竿に縄の帯をつけたもの)、バケツくらい
のもの。各町内の角々には、火消し用水のセメント製の桶があり、防火用水槽と呼んでいました。 これが冬に
なると凍ってしまい、ほって置くと槽全部が氷になってしまうので、私たち少年は毎朝その氷を割ってかきだす
仕事が割り当てられていました。 思えば、当時は公害もなく、温暖化などとは無縁の時代ですから、京都の冬
は厳冬そのものでした。
昭和20年の3月に大阪の街が大空襲に遭い、焦土と化しました。私の当時の住まいは加茂川の上流付近に
あったのですが、大阪の街が真っ赤になっているのが望見できました。 また、爆弾が落ちて地響きをあげて
いるのがわかりました。その翌日は夜が明けませんでした。大阪の街の大火災の煙が淀川、加茂川と遡って
きて、空は一面真っ黒でした。雨も降り出しました。兎に角学校に行きました。 幾何の期末試験の日だった
のですが、その教師が興奮状態で、試験はヤメヤメ、と叫んで職員室に引き上げてしまいました。
戦後間もなく、河内の友達を訪ねて行ったとき、大阪駅から鶴橋まで乗った車窓から見た大阪の街は、何にもない、
あるのは造幣局の建物が焼け爛れて、鉄柱がグニャグニャになって立っているのみでした。
空襲が繰り返されるので、もう夜中に起きて防空壕に潜るのも、最後の頃は止めてしまいました。
B29の大編隊の進入航路は、関西では、潮岬から紀伊水道を北上し、大阪湾より大阪を爆撃、さらに淀川を
遡って、どうも比叡山を目当てに来て、そこで編隊を立て直して琵琶湖、名古屋径由でグアムまたはサイパン
基地に帰還すると言う様子でした。比叡山近辺で編隊の再編成をやるので、B29の轟音が長時間響き渡り
ます。丁度ドラムをたたいているような響きでした。ドンドコドンドコと気味の悪いことったらありません
でした。 昼間、青空に見えるB29の編隊飛行は見事でした。 編隊を組んだまま、ドンドコドンドコとそれぞれ
が真っ白な飛行雲をたなびかせて飛んでいくのです。日本の戦闘機は成層圏まで上昇できないらしく、飛び立ち
もしません。時々高射砲を打っていますが、はるか下方でボンボンと白い煙があがるのみで、編隊はその形を
変えることもなく、飛び去っていきます。 子供心に唖然とする光景でした。