戦時中のはなし 10

昭和19年

学校では、戦時色が段々深まっていくのが感じられました。 警戒警報、空襲警報の発令回数が次第に増えて
きました。 夜間は、玄関下に掘った所謂防空壕に、一家防空頭巾に非常食を抱えてもぐりこみました。
親父殿が乾パンを一個ずつ家族に配ってくれるのが、唯一の慰めでした。
私の家から学校は割合近かったので、警報が出ると、自主的に学校に駆けつけて、屋上に上り、灯火の漏れ
をチェックする係りをやりました。大声でどなると、その灯火は消えていきます。 それほど、交通が全くない
静かな世界だったのです。
職員室で当番をした記帳をしておけば、一時間目の授業は出なくても欠席になりませんでしたし、それに校長
や教練の教官の説教じみた講話を聞かずにすみました。
当時は2年生から予科練、いわゆる航空予備訓練学校に志願入校が認められだしていました。それも半強制的に
学校に人数の割り当てが来ているようでした。 予科練を志願するものは、一歩左に出ろ、などと教練の教官
に言われて、志願していく同級生もチラホラいました。
一時間ごとに交代で門衛の衛兵に6人ずつ詰める行事もありました。勿論授業より優先した強制的な当番でした。
銃器庫より自分の銃と弾装帯を出してきて、門衛に立つのです。 交代時に先の門衛隊との引継ぎがあり、
職員室の教練の教官の前に行き、上番衛兵マルマルは下番衛兵ペケぺケに連絡事項を委細申し送りました、
と上番衛兵が言い、下番衛兵は、下番衛兵ペケペケは上番衛兵マルマルより連絡事項を委細申し受けました、
と言って交代するのです。教官は意地悪そうな目付きで服装や銃の持ち方などを一瞥して、ヨシと一声あり
交代が終わります。こんなことを13歳の皇国少年がやっていた、やらせられていた、ということを信じて
もらえるでしょうか? 教育基本法など、その当時はどんな形をしていたのでしょうか?