戦時中のはなし 4

小学生時代の続き

私が通っていた小学校(後に国民学校)は、町役場と隣接していて、中央小学校的存在だったのでしょう。
毎年春になると、空いている教室や講堂を使って徴兵検査が行われていました。

その当時は、男子20歳になると兵役義務が生じるので、その前のスクリーンニングが行われるのです。
甲種合格で一人前等、この徴兵検査自体の説明は他の参照文献等で、そのものの理解は出来るでしょう。

子供が目にしたのは、その光景の冷酷さでした。男子全員(私たちから見ればおじさんたち)が、越中
ふんどし一枚の姿で検査を受けている光景でした。 まるで売られていく牛馬のような取り扱いを受けて
いました。おそらく何か不都合なことでもあったのでしょう。裸のまま、2人が向き合ってお互いの頬を
殴り合っていました。 横で軍服を着た兵隊が、もっとしっかりやれ、とけしかけていました。 二人とも
頬は真っ赤に腫れ上がり、口から血が飛び散っていました。 子供心に軍隊というのは恐ろしいところだな
と思いました。

その頃の小学校の一角には、必ず奉安殿という建物がありました。コンクリート造りの神社風のものでした。
扉にはしっかりと錠前がおろされていました。 ここには天皇、皇后両陛下の御真影(写真)が祀られいて、
登下校のときは頭を垂れていました。 この扉が開くのは、式典が行われるときだけでした。 モーニンング
に白の手袋姿の校長が副校長を従えて階段を昇り、建物の中に入ります。中から出てくるときは、三宝
上に巻物がのせてあります。二人でその三宝を頭の上高くに捧げて校長室に運び入れます。
殆どの場合は教育勅語だけでしたが、後に青少年に賜りたる勅語というのも追加されました。
紀元節天長節明治節、等々の他、各月8日は大詔奉戴日があり、少なくとも月に一回は校長による
教育勅語の朗読が全校生徒の前で行われました。朗読の間は頭を垂れて静聴していました。

朝礼のときは、必ず宮城遥拝をしました。関西より見て東京は東に位置しているので、東に向って深く頭を
下げて、それから校長の訓示が毎朝行われていました。 ちなみに宮城とは天子さま(天皇)が御住まいに
なっておられる現在の皇居のことです。
(余談ですが、いまだに皇居のことを宮城と呼んでしまいます。 東京でタクシーに乗って皇居前に行こうとして
宮城へ行ってくれ、と言ったら、運転手さん曰く、今日はお客さん野球はやってないよと。)