戦時中の話 3

冒頭にて沢山の方々から貴重なアドバイスを戴いたことにお礼を申し上げます。
今後のこのブログを書いてゆく上で、また今後生を重ねていく上での指針にしたい
と思っています。
そう言う意味で、この”戦時中の話”を、拙い文章ですが、私が見た、聞いた、感じた
断面を皆様にお届けしたいと思います。

小学生の頃(昭和12-17年)

自分の肉体的、精神的成長で同じ景色でも変化していくのでしょうが。
小学1-2年は戦時色が徐々に濃くなっていくとはいえ、世の中が落ち着いていたように思います。
3年生、4年生になったころ、環境が変わってきました。朝鮮からの転校生が増えてきました。
孫君とか、李君、白君とかいった友達がやってきました。気の強い子は大丈夫でしたが、無口な
白君はいつもいじめられて泣かされてばかりいました。家庭の事情があったのか、白君は直ぐ転校
してしまいましたが。
小学3年生にもなると、家の働き手として少しは役に立つので、田植えや稲刈りのときには、親の
要請もあって、短期間ですが農業の家庭の子供たちは学校を休んで家の手伝いをしていました。
多分子守をしたり、苗を運んだりしていたのでしょう。
小学5年生のときに小学校が国民学校に名称変更になり、昭和16年12月8日真珠湾攻撃を期に
太平洋戦争が始まりました。支那事変はあいかわらず続行されていたのですが、連戦連勝のような
ムードでいつも戦争ありという雰囲気でした。しかしこの真珠湾攻撃はセンセーショナルなデビュー
でした。
その頃のメディアは、1-2枚の新聞とラジオ放送だけの状態でしたが、号外や増刷や繰り返される
戦果の放送で、わたしたち小国民もいやがうえにも高揚したのを憶えています。
特に海軍特殊潜航艇の働き、後の飛行特攻隊の海軍版、には少年心を躍らせました。
すぐさま軍神として祀られ、神となったのですから。航空母艦巡洋艦などが轟沈、撃沈、大破など
大戦果の報に万歳、万歳の声。万世一系の神、天皇をいただく日本国民は選民であり、無敵の軍隊を
もった素晴らしい国であると信じて疑わなかったのです。疑うなどという心さえ持ち合わせていません
でした。 この12月8日に大詔がでたので、以後月々8日は大詔奉戴日として記念式典を取りおこ
なっていました。 (ツヅク)