戦時中のはなし 2

                             

小学生の時代
私はその当時としては珍しい転校を重ねた小学生でした。
博多で幼稚園を終え、小学校の入学式に行った翌日に東京に移りました。
不思議に東京の小学校の入校式に間にあいました。
昭和12年4月のことでした。

記憶の中には博多の小学校入学式当日の広々とした校庭、門司から下関
まで乗った連絡船のこと、東京の小学校の狭い校庭の様子を憶えています。
このように小さい時から各地を転々とした所為か、その時その時を映像の
ように記憶する能力が備わったような気がします。これは自分では気が
つかなかったのですが、周りの人から指摘をされて分かったもので、一種
の才能なのかもしれません。

これもつかの間、今度は関西へ一年生の3学期には転校したのです。
住居は大阪と神戸の中間の阪急沿線でした。 その小学校は新設で小学3年
までしかクラスがなく、無事1年生として転入できました。
私が生まれた年、1931年に満州事変が起こって、小学校入学の昭和12年
支那事変(日中戦争)が起こっていたのです。
私たち小学1年生に課せられた任務は、出征兵士を見送るため日の丸の小旗を
持って沿道に立ち小旗を振ることでした。出征兵士が新しい軍服姿で、緊張
した面持ちでとおりすぎて行きました。

何の理由でそうなったのかわかりませんが、またまたその四月に転校したのです。
今度は真正面に生駒山が見える河内の田舎町でした。近鉄沿線で新興住宅地でした。
小学校はその地になく、郊外電車で一駅先の町の小学校へ2年生として通うこと
になりました。電車に乗っても駅から学校までけっこう距離があるので、毎日
徒歩で通学しました。仲間が6人いたので、ランドセルを背負って弁当箱の袋を
下げて田舎道を毎日片道一時間かけての通学でした。 今度は無事卒業するまで
この地に定住できました。

近所でも赤紙を貰った人たちが出征し始めました。近所の白エプロン姿の婦人会
の人や、在郷軍人の制服姿の人、町内会長などの見送りを受けて出征して行きました。

小学校と呼ばれたのも4年生まで、5年生のときには、国民学校と名称変更になり
ました。小国民を鍛錬する場所と位置ずけられたからだったのです。

学校外の任務は、今度は英霊をお迎えすることが多忙になりました。戦死された
兵士が英霊となって帰還されるので、沿道に立って黙祷してその霊をお迎えする
のです。それから町の小高いところのお寺に行き、僧侶の読経が行われる間、本堂
で正座して参列するのです。足がしびれて立てなくなることも屡でした。

このように戦争の流れと共に歩まされる運命を担わされた青少年たちは、軍隊的に
しごかれ、鍛えられ、銃後の守り(分かりますか?)につくべく導かれていった
のです。