戦時中のはなし

終戦記念日以来、もろもろの刺激があって、戦時中の色々な出来事が
脳裏に噴出してきて、この暑さも手伝ってか少々憂鬱な気分に支配されています。

この気分を落ち着かせることになるか、益々助長することになるかは、書いて
みないと分かりませんが、諸々あった戦時中の一軍国少年の思い出話をさせてください。

まず終戦当日、昭和20年8月15日のことから始めましょう。

当時私は5年制の旧制中学の3年生でした。 3年生以上は学徒動員という国家の
制度の下、主として軍需品生産工場の工員として勉学を中断して働いていました。
従って学校には1年生と2年生しか在校していませんでした。 所謂上級生不在の状態でした。
丸学と言っていましたが、丸の直径20センチほどのダンボール紙を赤布で蔽い、何故か
簡易文字の学(文の下に子と書いた)を墨で書き、それを左胸に安全ピンでとめていました。

そこは大手の軍需会社の工場で、疎開のため(空襲から逃れる為)郊外の小学校の教室に
旋盤器械などを据えて飛行機の部品を生産していました。 3交代制で8時間づつ働いて
いました。 14歳の少年でした。

8月15日、雲一つない夏の太陽が照りつける暑い日でした。 10時頃、今日の正午
に校庭に全員集まるようにとアナウンスがありました。朝礼台の上にラジオが置かれて
いました。工場長らしい人が、これから重大な放送がありますからと言って、ラジオの
スイッチを入れました。 受信状態は余り良くなく、とぎれとぎれになにか悲痛な声が聞こえて
きました。 内容は分からなかったものの、それが天皇陛下のいわゆる玉音放送であること、
戦争が止まったなというおぼろげな感じが伝わってきました。大人のひとたち、教師を
含めて一同呆然としてその場にたたずんでいました。

教師の一人が今日はもう帰宅してよろしいと言ったようなので、私たちは夫々家路につきました。
郊外電車、市電と乗り継いで帰るのですが、皆無言でした。

今晩は空襲はなかろう、と父親が言ったので、電灯の下にぶら下げて光を漏らさないように
してある黒い布を上に巻き上げて、久しぶりに明るい光の下で、水のような雑炊をすすりました。

8月15日、私の終戦当日のシーンです。