戦時中のはなし 9

今 東光で有名になった大阪府下の河内から来た転校生の私は、京都の悪がきどもにとっては、格好の
いじめの対象ではありました。父親が家族を伴ってくるまでの短期間、私は父の上司の家に厄介になりました。
その家には、早稲田大学の弁論部の長男と立命館大学の次男がいました。長男は結核を患っていて、家でブラブラ
していて、演説の練習ばかりしていて、もっぱら次男と私が聴衆役でした。次男は大学の空手部員で、庭に藁
草履をくくりつけた板があり、それを指の骨が砕けるほど毎日なぐっていました。 私も見よう見真似で練習
していました。 その構えが身についたので、いじめられるときはその構えをするので、あいつは空手が出来る
と評判がたち、いじめが途端になくなりました。
転校していった中学は所謂過去の名門中学で、三高、京大の予備校的存在であったのですが、当時はもう学区制の
範疇で、その地域の学生が通っている単なる公立中学校でした。
しかしその地区に住んでいる人たちが所謂エリート層であったため、その子弟である同級生は只者でない生徒
が数多くいました。いままで書物といえば、教科書ぐらいしかなかったのが、古本屋の存在でにわかに本屋通い
をはじめました。はじめは参考書の閲覧から、だんだん岩波文庫に手がでるようになり、夏目漱石や、友人の
勧めでモーパッサン女の一生などを読むようになりました。
文化的には全く河内とは較べものにならない雰囲気、風潮でしたが、こと戦時下にかかわる点では、河内より
激しい面がありました。
驚いたことに、校内には銃器庫があり、その中に多くの38銃が保管されていました。さっそく私にも一丁の
38銃一式が割り当てられました。弾帯と短剣もありました。決められた日に、必ず銃の点検と清掃があり、
油布で銃身の中を鉄棒を通して掃除したり、外を磨いたりしました。この銃にも菊の御紋章が刻印されて
いて、天皇陛下から下賜された大切な預かり物であると教えられました。粗末に扱ったり、落としたりしたら
厳罰ものでした。寒い校庭の朝礼台の上に銃を構えて立たされている生徒が時々いました。