戦時中のはなし 8

昭和18年、戦時下の中学生の夢は兵隊でも、下士官に、また将官になることでした。
その為には、早道として陸軍幼年学校あたりが手っ取り早いところでしたが、2年生から受験できることになっていました。 
また中学4年か5年から高等学校に進学する代わりに、陸軍士官学校江田島海軍兵学校を志望する道もありました。
時々、それらの軍関係の学校に進学した先輩が休暇のときに母校を訪れ、学校の宣伝を兼ねて講演をしにきました。
陸軍は陸軍の話し方があり、海軍は江田島の独特の高低をつけた話し方で私たちを魅了しました。
当時は甘いものに飢えていた時代でしたから、彼等がお三時にビスケットが食べられるゾ、などと言うとそれだけで
陸士や海兵が好ましく感じたものでした。
しかし、戦況は悪化しているようでした。海兵出身の海軍士官が訪れたとき、ミッドウェーの海戦の話をしました。
戦後分かったことですが、この海戦で日本海軍は大打撃を受け、主力艦隊の大半を失った戦いであったのです。
当然多くの戦死者が出たのでしょう。その海軍士官の話は、敵弾を受けて死んでいく兵士の話でした。
瀕死の重傷の中で、彼が発した言葉は、天皇陛下万歳であったと。 そしてオカーサンと言って事切れたと。
列席した者皆感動に浸たるなか、校長はこっくりこっくり居眠りをしているのと対照的に、教頭はハンカチを目に号泣
しているのが、なんとも奇妙な光景でした。この教頭は、戦後最も熱心なデモクラシー論者になったとか、当時の同級生から聞きました。
私は2年生の1学期を最後にこの学校を去り、父の転勤の地、京都に移り住むことになったのです。
京都は京都で、一味違った戦中体験を味わいました。