戦時中のはなし 7

昭和18年、私たちが中学の一年に進学した時は、全国の学校は戦時体制に完全に組み込まれていました。
軍事のための教育がすべて優先していました。
月に一回遠距離の行軍演習がありました。この時ほど体力と体形の差を覚えたことはありません。
5年生から出発するのですが、私は一年6組で最終の出発です。その中でも小柄の私は最後部でした。
休憩は1時間に一度10分程度あるのですが、私たちが腰を下ろして水筒のお茶を飲み終わるか、終わらない
中に5年生の先頭が出発しだすのです。歩幅の足りない一年生は、いつも小走りで前の列に遅れないように
しなければなりませんでした。 自転車にまたがった教官が来てハッパをかけていきます。小走りの行軍は
身にこたえました。
柔剣道の訓練も繰り返されました。棒に藁の人形をくくりつけたのを木銃で突き刺すのです。教官曰く、
実際の人間はこの藁人形よりもっと柔らかいと。 子供心に、この教官は白兵戦(敵,味方が銃剣や刀で
切りあいをやる戦い)の経験者だなと思いました。
冬は寒稽古が行われました。朝の6時から校庭で主に剣道の振りの練習です。未だあたりは暗く、地面は
霜柱に覆われています。その上を素足で木剣の訓練をやりました。教師は朝礼台の上ですから、こちらの
冷たさとは違います。30分もすると、足の感覚がなくなってきます。 終わると一斉に皆駆け出します。
行き先は足洗い場です そこで水道の水を溜めて足をつけるのです。水道の水をお湯のように感じました。
戦時ですから夏休みはなく、勤労奉仕に駆り出されました。行き先は飛行場です。炎天下で飛行場の草刈り
をやりました。時々飛行訓練が行われていました。新鋭爆撃機のドンリュウというのもいました。その胴体
の大きいこと、しかし飛び立つのに大変です。民家の屋根スレスレでやっと飛び立っていきました。
それに引き換え、ドイツ製のメッサーシュミットという双胴の戦闘機は45度くらいの鋭い角度で上昇して
いきました。大変だったのは水の配給でした。時々配給が忘れ去られるのか水が配給されないことが起こり
ました。炎天下の作業であり、多くの生徒が熱中症で倒れていきます。引率の教官もさすがに慌てて、自転車
に乗って水の配給を催促に行きます。やっと肥タゴのような樽に天秤棒をつけて、短靴を履いた二人の兵隊
が水を運んできてくれました。先を争ってどんぶりで水をガブ飲みしました。
楽しかったのは、農業動員でした。農家に稲の刈り取りや、脱穀を手伝いにいきます。昼になると、農家の
オカミサンが大きなお櫃に白米を炊いて持ってきてくれます。私たちはそれを銀飯とよんでいました。
めったに家庭では手に入らなくなっていました。 その銀飯を大きなドンブリで何杯もお代わりして戴き
ました。

戦時中のはなし 6

昭和18年のころ

当時6割くらいの生徒が小学校、いや国民学校を卒業して進学したようだ。 勿論進学先も一般の公立中学校や、
私立のや、工業、商業学校などあったが、主として公立中学校に進学した。
私もその例に漏れず、河内のど真ん中にある中学校に入学した。 一応入学試験なるものがあり、当時の風潮から
体力重視のものであった。砲丸投げとか走り幅跳びなどの測定があり、学科?は爆撃機から爆弾投下を行った時の
放物線の想定問題などがあったが、殆ど内申書で入学を決定していたようだ。

卒業前に体の小さい男の子が、少年満蒙開拓団に入隊したといって、ゲートル姿で皆の前で敬礼し、校長に伴われ
校門をあとにして行った。今でも忘れられない光景の一つである。彼は生きて内地に戻ることが出来たのだろうか。

戦況も厳しくなりつつあったらしく、中学校は学びの場としての他、軍国少年の育成の場と認識されていたようだ。
制服を購入したが、勿論配給制で一着だけ、しかも全員の色が揃わず、あるものは濃グリーン、あるものはベージュ
とまだら模様の新一年生であった。素材はスフ、所謂人絹で粗悪品であった。 匍匐前進などで膝と肘を使っての
腹ばい前進で穴が開き、直ぐに補修しなければならなかった。
毎朝、ゲートルを巻いて登校した。 これもスフ製で綿と違ってすべりがひどく、ずれ下がって登校途中で巻き
直しをしなければならない事も度々であった。
軍事訓練の他、剣道、柔道、柔剣道と校庭と武道館の生活も結構多かった。竹刀、柔道着などを持ち、まるで武蔵坊
弁慶のような出で立ちで登校する日も少なくなかった。
新教科の英語は楽しかった。王冠が表紙のKing's Crown Reader という教科書で、中を見るだけで新世界に行った
ような気分だった。 また、Gペンをインク壷に入れて書く英習字は何か別世界にいる瞬間を味わった。
国語の時間のため、辞書の購入をしたが、全員同じ辞書が配給されず、色々な辞書が行き渡った。紙が粗悪なため
分厚い辞書であった。当時読む書物にも事欠いていたので、この広辞淋なる辞書は退屈しのぎに見るにはもって
こいのものであった。知らない言葉を引き、その説明の中の知らない言葉を引きして、辞書の中を遊んでまわった。
それが今日のこのブログとの出会いに結びついたのかもしれない。

戦時中のはなし 5

昭和15-17年の頃

小学、国民学校生のころは、殆ど戸外で一日を過ごしていました。 家の中で過ごした記憶があまりありません。
さすがに冬の寒い時は火鉢のまわりに集まっておしゃべりをしていたようです。
あれだけ一日に色々なことをしたな、と言うほど夏休みの一日は充実していました。

朝のラジオ体操に出席して、直行で川べりの樹の枝にぶら下がって未だ睡眠中のヤンマトンボを物色します。
出来るだけ色の濃い、また翅のすりきれたメスヤンマを捕まえます。 家に持って帰って籠に収めます。
朝ごはんを食べ、夏休みの宿題を少々やると、そのメスヤンマに糸をつけて野原に行きます。
野原ではオスヤンマが虫を捕るべく旋回飛行をしています。草陰に身をひそめて、メスヤンマを頭上で旋回
させます。すると、オスヤンマが交尾のアタックをかけます。ガチャガチャと翅音がして、二匹が地上に落ちます。
そこをすかさずオスを捕まえます。 そのスリルを思う存分楽しむのです。
鳥もちを塗った竹ざおを持って森へ行きます。蝉や、玉虫などを狙います。
タモを持って小川に一連隊で向かいます。年長者がタモを広げて川をせきとめます。年少者たちが川下から裸足で
小魚を追い上げます。それを何べんも何べんも繰り返して、魚がタモに入るまで川の中を歩きます。
夕暮れが迫ると、ヤンマの大群が休息場所の川原をめざして帰ってきます。その群れに向ってモリを投げてヤンマ
を捕獲するのです。小石をパラフィン紙で包んだのを両端に糸で繋いだのがモリなのです。それを空中に投げると
ヤンマが虫と思って掴まえにくるところに糸がかぶさって落ちてくるです。これには相当の技術がいります。
日が暮れてしまうと、縁台を出して団扇をもってめいめい座り、おしゃべりや、花火をしたり、オジーサンの話を
聞いたりします。
地蔵盆のときは、お布施のお菓子が目当てで、おばーさんたちが鐘をならしてあげるお経のような唄に付き合います。

このように、私たちが子供の頃は自然相手の遊びが満ち溢れていました。

但し、学校では、今と違って生徒たちに教師による制裁が容赦なく行われました。
特に、私の担任は若く、師範学校を出て軍隊教育を終えたばかりの青年でした。生徒が悪事を働くと、革のスリッパ
で両頬を殴られました。手加減をしていたのか、殴り方が上手かったのか、これで怪我をした生徒はいませんでした。

戦争が終わって、自然も遊びもなくなっていったようです。

戦時中の話 5

大東亜戦争、今で言う太平洋戦争、が始まってからの日本軍の南進の速度は驚異的でした。
アレヨアレヨという間にに南方の島々からフィリッピン、香港、マレーシア、タイ、ジャワ、セベレス、
ボルネオ、など次々に占領が続くのですから、地図を片手に日本の赤の色で塗りつぶしていくのが忙しい
ほどでした。 このような地名は小学5-6年の時に憶えたものです。
このような状態だったので、日本の軍隊は本当に無敵の皇軍だと子供心に信じて疑いませんでした。
ビルマからインドへ、いわゆるインパール作戦や、ガダルカナル島の名前が出てくる頃から少し様子が
変だなという感じはしました。戦後になって聞けば、すざましい戦いが繰り広がられ悲惨な敗退が始まって
いたのでした。
しかし、まだ当時食糧事情も普通で、銃後の守りは万全だと、我等軍国小国民は意気軒昂でありました。
非常時だ、贅沢は敵だ、米英撃滅等々勇ましいスローガンには事欠きませんでした。

戦時中のはなし 4

小学生時代の続き

私が通っていた小学校(後に国民学校)は、町役場と隣接していて、中央小学校的存在だったのでしょう。
毎年春になると、空いている教室や講堂を使って徴兵検査が行われていました。

その当時は、男子20歳になると兵役義務が生じるので、その前のスクリーンニングが行われるのです。
甲種合格で一人前等、この徴兵検査自体の説明は他の参照文献等で、そのものの理解は出来るでしょう。

子供が目にしたのは、その光景の冷酷さでした。男子全員(私たちから見ればおじさんたち)が、越中
ふんどし一枚の姿で検査を受けている光景でした。 まるで売られていく牛馬のような取り扱いを受けて
いました。おそらく何か不都合なことでもあったのでしょう。裸のまま、2人が向き合ってお互いの頬を
殴り合っていました。 横で軍服を着た兵隊が、もっとしっかりやれ、とけしかけていました。 二人とも
頬は真っ赤に腫れ上がり、口から血が飛び散っていました。 子供心に軍隊というのは恐ろしいところだな
と思いました。

その頃の小学校の一角には、必ず奉安殿という建物がありました。コンクリート造りの神社風のものでした。
扉にはしっかりと錠前がおろされていました。 ここには天皇、皇后両陛下の御真影(写真)が祀られいて、
登下校のときは頭を垂れていました。 この扉が開くのは、式典が行われるときだけでした。 モーニンング
に白の手袋姿の校長が副校長を従えて階段を昇り、建物の中に入ります。中から出てくるときは、三宝
上に巻物がのせてあります。二人でその三宝を頭の上高くに捧げて校長室に運び入れます。
殆どの場合は教育勅語だけでしたが、後に青少年に賜りたる勅語というのも追加されました。
紀元節天長節明治節、等々の他、各月8日は大詔奉戴日があり、少なくとも月に一回は校長による
教育勅語の朗読が全校生徒の前で行われました。朗読の間は頭を垂れて静聴していました。

朝礼のときは、必ず宮城遥拝をしました。関西より見て東京は東に位置しているので、東に向って深く頭を
下げて、それから校長の訓示が毎朝行われていました。 ちなみに宮城とは天子さま(天皇)が御住まいに
なっておられる現在の皇居のことです。
(余談ですが、いまだに皇居のことを宮城と呼んでしまいます。 東京でタクシーに乗って皇居前に行こうとして
宮城へ行ってくれ、と言ったら、運転手さん曰く、今日はお客さん野球はやってないよと。)

戦時中の話 3

冒頭にて沢山の方々から貴重なアドバイスを戴いたことにお礼を申し上げます。
今後のこのブログを書いてゆく上で、また今後生を重ねていく上での指針にしたい
と思っています。
そう言う意味で、この”戦時中の話”を、拙い文章ですが、私が見た、聞いた、感じた
断面を皆様にお届けしたいと思います。

小学生の頃(昭和12-17年)

自分の肉体的、精神的成長で同じ景色でも変化していくのでしょうが。
小学1-2年は戦時色が徐々に濃くなっていくとはいえ、世の中が落ち着いていたように思います。
3年生、4年生になったころ、環境が変わってきました。朝鮮からの転校生が増えてきました。
孫君とか、李君、白君とかいった友達がやってきました。気の強い子は大丈夫でしたが、無口な
白君はいつもいじめられて泣かされてばかりいました。家庭の事情があったのか、白君は直ぐ転校
してしまいましたが。
小学3年生にもなると、家の働き手として少しは役に立つので、田植えや稲刈りのときには、親の
要請もあって、短期間ですが農業の家庭の子供たちは学校を休んで家の手伝いをしていました。
多分子守をしたり、苗を運んだりしていたのでしょう。
小学5年生のときに小学校が国民学校に名称変更になり、昭和16年12月8日真珠湾攻撃を期に
太平洋戦争が始まりました。支那事変はあいかわらず続行されていたのですが、連戦連勝のような
ムードでいつも戦争ありという雰囲気でした。しかしこの真珠湾攻撃はセンセーショナルなデビュー
でした。
その頃のメディアは、1-2枚の新聞とラジオ放送だけの状態でしたが、号外や増刷や繰り返される
戦果の放送で、わたしたち小国民もいやがうえにも高揚したのを憶えています。
特に海軍特殊潜航艇の働き、後の飛行特攻隊の海軍版、には少年心を躍らせました。
すぐさま軍神として祀られ、神となったのですから。航空母艦巡洋艦などが轟沈、撃沈、大破など
大戦果の報に万歳、万歳の声。万世一系の神、天皇をいただく日本国民は選民であり、無敵の軍隊を
もった素晴らしい国であると信じて疑わなかったのです。疑うなどという心さえ持ち合わせていません
でした。 この12月8日に大詔がでたので、以後月々8日は大詔奉戴日として記念式典を取りおこ
なっていました。 (ツヅク)

戦時中のはなし 2

                             

小学生の時代
私はその当時としては珍しい転校を重ねた小学生でした。
博多で幼稚園を終え、小学校の入学式に行った翌日に東京に移りました。
不思議に東京の小学校の入校式に間にあいました。
昭和12年4月のことでした。

記憶の中には博多の小学校入学式当日の広々とした校庭、門司から下関
まで乗った連絡船のこと、東京の小学校の狭い校庭の様子を憶えています。
このように小さい時から各地を転々とした所為か、その時その時を映像の
ように記憶する能力が備わったような気がします。これは自分では気が
つかなかったのですが、周りの人から指摘をされて分かったもので、一種
の才能なのかもしれません。

これもつかの間、今度は関西へ一年生の3学期には転校したのです。
住居は大阪と神戸の中間の阪急沿線でした。 その小学校は新設で小学3年
までしかクラスがなく、無事1年生として転入できました。
私が生まれた年、1931年に満州事変が起こって、小学校入学の昭和12年
支那事変(日中戦争)が起こっていたのです。
私たち小学1年生に課せられた任務は、出征兵士を見送るため日の丸の小旗を
持って沿道に立ち小旗を振ることでした。出征兵士が新しい軍服姿で、緊張
した面持ちでとおりすぎて行きました。

何の理由でそうなったのかわかりませんが、またまたその四月に転校したのです。
今度は真正面に生駒山が見える河内の田舎町でした。近鉄沿線で新興住宅地でした。
小学校はその地になく、郊外電車で一駅先の町の小学校へ2年生として通うこと
になりました。電車に乗っても駅から学校までけっこう距離があるので、毎日
徒歩で通学しました。仲間が6人いたので、ランドセルを背負って弁当箱の袋を
下げて田舎道を毎日片道一時間かけての通学でした。 今度は無事卒業するまで
この地に定住できました。

近所でも赤紙を貰った人たちが出征し始めました。近所の白エプロン姿の婦人会
の人や、在郷軍人の制服姿の人、町内会長などの見送りを受けて出征して行きました。

小学校と呼ばれたのも4年生まで、5年生のときには、国民学校と名称変更になり
ました。小国民を鍛錬する場所と位置ずけられたからだったのです。

学校外の任務は、今度は英霊をお迎えすることが多忙になりました。戦死された
兵士が英霊となって帰還されるので、沿道に立って黙祷してその霊をお迎えする
のです。それから町の小高いところのお寺に行き、僧侶の読経が行われる間、本堂
で正座して参列するのです。足がしびれて立てなくなることも屡でした。

このように戦争の流れと共に歩まされる運命を担わされた青少年たちは、軍隊的に
しごかれ、鍛えられ、銃後の守り(分かりますか?)につくべく導かれていった
のです。